作文ワールドV

社会科作文

その2

「社会科作文」−その1  作文ワールド(T)

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掲載予定作品
1.『かまくら』(秋田県横手市)         − 秋平くん(小6)
  『ぼんでん』
2.『歴史のテスト』(アメリカ・ロサンゼルス) − 勇太郎くん(小5) 
  『十三植民地の中心「ペンシルベニア」』
  (『現地校について』
  『ヨセミテ国立公園』
3.『万里の長城』(中国)            − 拓海くん(小5)
  『天安門と王府井』
4.『カタリナ島キャンプ』(アメリカ・カリフォルニア)− 勇太郎くん(小6)

 社会科作文と名づけた分野もにぎやかになってきたので、「その2」を設けることにする。もとのページ(その1)は際限なく下に延びていく感じで、長くなりすぎるためであるが、掲載作品は主に夏休みの時のものであるため、あれはあれで一まとめにしておくのもよいだろうと考えてのことでもある。
 ここ(その2)では、季節や場所にとらわれず、いろいろユニークな作品を紹介することにしよう。


『かまくら』(小6 渡部秋平)

 実は、当初、秋平くんは『雪』という題で、次のような作文を書いた。

当初の作文 添削例
 ぼくの住む横手市では雪がたくさん降ります。横手市では毎年2mの雪が降ります。2mといったら大人がすっぽりうまってしまうくらいです。雪が降って大変なことは雪かきと雪下ろしです。どちらもとても大変です。あと横手市ではかまくら祭りとぼんでんがあります。かまくら祭りではかまくらの中に入れてもらってあまざけやもちを食べさせてもらいます。あとぼんでんでは、ぼんでんをかついでいるところを見ます。どちらのお祭りでも屋台が」出るので、とても楽しいです。ぼくは雪が降って大変なことや楽しいことがあるのですごいなあと思いました。
← 毎年約2m降ります。

※「雪がふって」で改行して、どんなふうに大変なのか、自分の体験をもとに書いてみよう。
※「あと横手市では」で改行する。横手では一冬にいくつぐらいのかまくらができるのだろう。
※「ぼんでん」というのは、どういうものなのだろう。
※「ぼくは雪が」で改行して、「雪が降ると大変だけど、楽しいこともあるので、雪ってすごいなあと思います。」とでもする。

 一応添削しておいたのだが、この短い話の中におもしろうそうなことがいっぱい詰まっている。
 そこで、次のようなコメントを付けておいた。 

 雪のことになると、さすがに話題が多くなるね。「雪かきと雪おろし」「かまくら」「ぼんでん」と、3つもある。この3つについて、雪のことをあまり知らない人のために、それぞれ別に書いてみよう。

「雪かきと雪下ろし」
 12月になると、横手では雪がたくさん降ること、雪かきや雪下ろしをしなければならないこと、それが大変な作業であることを、自分の体験を交えて具体的に書いてみよう。

「かまくら」
 自分の体験をもとに、かまくらの大きさや中の様子、また、どのようにして作るのか、横手市内にはいくつぐらいあるのか、いつの時代から始まった行事なのか、などについて書いてみよう。

「ぼんでん」
 これはどういうものなのか。まったく知らない人が多いと思うので、いつごろ、どのように行われるのかを、自分が見たこと、あるいは、したことをもとに、くわしく書いてみよう。

 「かまくら」や「ぼんでん」については、横手を代表して日本中の人に伝えるつもりで書いてね。
 

 すると、まず「かまくら」が届いた。秋平くんはいろいろ調べたようだ。

はじめの作文 添削例
 かまくらは横手の冬の祭りです。
 雪国秋田を代表する横手市の「かまくら」は400年以上の歴史をもつ詩情豊かな民俗行事です。かまくらの由来は、その昔雪室を造り、松飾り、しめ縄を焼く行事と鳥追いの行事、それに水不足になやまされたので「おしずの神さん」(水神様)を祭った行事とが一体になり小正月に行う伝統行事です。雪の山をくり抜き雪室をつくり奥に水神様を祭り、お神酒、甘酒、おもちなどを供えます。かまくらの御燈明が点ると、宵闇にほのぼのと灯りが漏れます。かまくらの中では、周囲の白い雪かべに灯が映えて明るくなります。
 かまくらの作り方は地面にかまくらの大きさの円を描いて、雪をしっかりふみ固めながら3mくらいまで積み重ねます。次に、入り口部分に印をつけ、そこからほりはじめます。そして人がはいれるくらいまでほればかまくらができます。
 ぼく達の小学校では雪祭りで全校でミニかまくらを作ります。ぼく達は約2000個のミニかまくらを作ってその日の夜にろうそくに火をつけます。その景色はとてもきれいです。
 ぼくはかまくらのことについて調べて、かまくらは神さまを祭っている祭りなんだなあと思いました。
※ いつごろ行われるのだろう。



← それに、水不足になやまされた時に「おしずの神さん」…
← 一体になって小正月に行われるようになったのが始まりということです。(※この文の始めの「かまくらの由来は、」に合わせて文をしめくくる:主語・述語)。





← そして、人が○人くらい入れる部屋を作り、奥に水神様を祭る棚を作ります。
※ こんなかまくらが市内でいくつぐらいできるのだろう。数を入れて、町の様子も書こう。

◎ ミニかまくら作りの話はとてもいいね。

 期待に応えて、秋平くんは祭りのあちこちの様子を詳しく書いてくれた。

書き直した作文
 かまくらは横手の冬の祭りです。
 雪国秋田を代表する横手市の「かまくら」は400年以上の歴史をもつ詩情豊かな民俗行事です。かまくらの由来は、その昔雪室を造り、松飾り、しめ縄を焼く行事と鳥追いの行事、それに、水不足になやまされた時に「おしずの神さん」(水神様)を祭った行事とが一体になって小正月に行われるようになったのが始まりということです。雪の山をくり抜いて雪室をつくり、奥に水神様を祭り、お神酒、甘酒、おもちなどを供えます。かまくらの御燈明が点ると、宵闇にほのぼのと灯りが漏れてきます。かまくらの中では、周囲の白い雪かべに灯が映えて明るくなります。
 横手のかまくらは、2月15、16日に行われますが、作るのは1月末から始まります。
 かまくらの作り方は、まず地面にかまくらの大きさの円を描いて、雪をしっかりふみ固めながら3mくらいまで積み重ねます。次に、入り口部分に印をつけ、そこから掘り始めます。そして、人が5、6人入るくらいまで掘り、奥に水神様を祭るたなを作って完成です。
 祭りになると、市内には100個以上のかまくらができます。その中に町内の人や子供が入って、「入ってたんせ」(お入りください)、「甘えこ飲んでたんせ」(甘酒飲んで下さい)と言いながら、人々や観光客をもてなします。
 ぼく達の小学校では、2月14日にミニかまくら集会を行います。バケツに雪をつめてひっくり返し、小さいシャベルであなを掘ります。全校で約2000個も作ります。夜、ミニかまくらにろうそくをともします。地域の人たちが屋台でおもちや甘酒を作ってくれます。2000個の灯りのついた景色はとても幻想的です。
 かまくらは奥が深いなあと思いました。だから、これからもかまくらを引きついでいかないといけないなあと思いました。














※ いつ行われるのか、知らない人のためには、これが大事だね。






◎ これで祭り全体の様子が分かる。にぎやかでいいねえ。



◎ ミニかまくらの作り方の入っているのがいい。これなら、だれでも参加できるよね。
 学校では伝統を重んじ、地域の人がそれを支えているのだね。その様子がよく伝わってくる。


◎ 傑作ができたね。

 「かまくら」の様子は、秋平くんのおじいちゃんが写真に撮ってくれている。こちらへ。

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1−2『ぼんでん』(小6 渡部秋平)

 『かまくら』に続いて『ぼんでん』に取りかかる。

はじめの作文 添削例
 横手のぼんでんは2月16、17日に行われます。
 ぼんでんとは、幣束のことです。横手のぼんでんは大型で綺麗なことが特微で、高さ約5メートル重さ約50kg、家内安全、商売繁盛、五穀豊穣などを祈願し、旭岡山神社に奉納します。ぼんでん奉納の前日、2月16日は「ぼんでんコンクール」のため市役所前に大小合わせて約50本のぼんでんが集まります。コンクールでは、頭飾りの出来ばえや全体の完成度などを審査します。ぼんでんは250年以上の歴史があるということです。
 作り方は5mくらいの細長い丸太の先に円筒形の竹かごを取り付け、それに色彩あざやかな布や麻糸などをたらし、しめ縄、ご幣を下げ、頭の上には意匠をこらした武者人形や干支などの飾り物をつけその豪華さは他に類を見ないのだそうです。
 2月17日、その日は各町内や職場から、そろいの印ハンテンを着た若者たちがほら貝を吹き鳴らし、「ジョヤサ、ジョヤサ」の掛声も威勢よく、ぼんでんをかついで進みます。旭岡山神社の本殿に先陣を競ってどっと突っ込み、さらに激しくもみあい、御堂の中には熱気があふれます。
 ぼくは3年生のとき紙コップにわりばしを取り付け、まわりにきれいな布をまいてミニミニぼんでんを作り、クラスのみんなで会場に行って観光客の人達にあげたことがあります。あとから学校へもらった人からおれいの手紙がきて、うれしかったことをおぼえています。
 横手の冬祭りはおもしろいのでぜひ来て下さい。 



← 大型で、高さ約5メートル、重さ約50キログラムあり、きれいなことが特徴です。家内安全……








← 布や麻糸などを付けてたらし

← ……飾り物を付けます。
※ 主語・述語を整えて、いったん文を切る。



← 先陣を争って





← あとで、もらった人から学校へお礼の手紙がきて、

◎ 行ってみたいなあ。夜はかまくらが、昼はぼんでんがきれいなのだろうなあ。

 内容もよいが、構成もよい。特に、「幣束」(へいそく)の説明を作り方のところへもっていっているのがよい。これによって、「ぼんでん」の華やかさがいっそうよく分かる。
 これでよいといえばよいのだが、細かく見ると直したいところがあるので、書き直してもらった。

書き直した作文
 横手のぼんでんは2月16、17日に行われます。
 ぼんでんとは、幣束のことです。横手のぼんでんは大型で、綺麗なことが特微です。高さ約5メートル、重さ約50kgあり、家内安全、商売繁盛、五穀豊穣などを祈願し、旭岡山神社に奉納します。ぼんでん奉納の前日、2月16日には「ぼんでんコンクール」のため、市役所前に大小合わせて約50本のぼんでんが集まります。コンクールでは、頭飾りの出来ばえや全体の完成度などを審査します。ぼんでんは250年以上の歴史があるということです。
 作り方は、5メートルくらいの細長い丸太の先に円筒形の竹かごを取り付け、それに色彩あざやかな布や麻糸などを付けてたらし、しめ縄、ご幣を下げ、頭の上には意匠をこらした武者人形や干支などの飾り物をつけます。その豪華さは他に類を見ないのだそうです。
 2月17日、その日は各町内や職場から、そろいの印ハンテンを着た若者たちがほら貝を吹き鳴らし、「ジョヤサ、ジョヤサ」の掛け声も威勢よく、ぼんでんをかついで進みます。旭岡山神社の本殿に先陣を争ってどっと突っ込み、さらに激しくもみあい、御堂の中には熱気があふれます。
 ぼくたちは3年生のとき紙コップにわりばしを取り付け、まわりにきれいな布をまいてミニミニぼんでんを作り、クラスのみんなで会場に行って観光客の人達にあげたことがあります。あとで、もらった人から学校へお礼の手紙がきて、うれしかったことをおぼえています。
 横手の冬祭りはおもしろいので、ぜひ来て下さい。 




← 重さ約50キログラムの丸太の先に幣束を付け……
※ ここをこうしておこう。そうすれば、作り方のところで形がもっと分かりやすくなる。






















◎ もう1つ、傑作ができたね。

 美しい「ぼんでん」の写真はこちらでどうぞ。
 なお、「ぼんでん」は漢字では「梵天」と書くようだ。

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『歴史のテスト』(小5 小野勇太郎)

 勇太郎くんはロサンゼルス郊外に住んでいて、既に「スポーツ作文」の『ワールド・ベースボール・クラシック』でおなじみである。
 学校は、日本人学校ではなく、現地校に通っている。授業にはユニークなものがあるようだ。その一端を紹介しよう。

はじめの作文 添削例
 ぼくは、アメリカ合しゅう国に住んでもうすぐ4年になります。ぼくは、三年生の時はアメリカの地理を、四年生の時はカリフォルニアの歴史を、そして、五年生になってから、アメリカの歴史を勉強しています。
 最初はアメリカのことがわからなかったので人や場所の名前を覚えるのに時間がかかりました。でも、このごろは、だんだんアメリカのことがわかってきたので、アメリカ史は大好きなかもくになりました。そして、去年の秋、歴史のテストで百点をとることができて、とてもうれしかったです。
 その時は、コロンブスのアメリカ大陸発見、それからスペイン人が今のカリフォルニア州、テキサス州、フロリダ州、メキシコ、中央アメリカと南アメリカの一部とカリブの島を征服してニュースペインという国を作ったところまでがテストのはんいでした。
 学校で先生は、コロンブスがアメリカ大陸を発見するまでをくわしく説明してくれました。
 その時代にはまだ世界地図がなかったので、コロンブスは大西洋を西へ航海すれば、アジア(インド)に着けると信じていましたが、カリブの島に着いてしまいました。しかし、この発見で、ヨーロッパ人がアメリカ大陸に会うことができて、アメリカが世界の歴史に登場することができたと話してくれました。
 ぼくは、世界地図のないその時代に、どんなこわいことが起きるかわからないのに海をわたったコロンブスは、とても勇気のある人だと思いました。
 また、十月にコロンブスデーという祝日がありますが、この日は、アメリカ人みんなでお祝いができない日でもあるそうです。それは、コロンブスがアメリカ大陸を発見してしまったその日からネイティブインディアンの人たちの悲しい歴史が始まったからだそうです。
 ぼくは、むかしに生きた人たちのことを考えると、わくわくします。このように歴史にきょう味を持って一生けん命勉強したので、百点がとれたと思います。これからも歴史の勉強をがんばりたいと思います。


◎ いつ、何を習ったかが、きれいに書き分けられていて、とても分かりやすい。

◎ 時間がかかっても、分かるまでがんばったのだね。りっぱ、りっぱ。

← 百点をとることができました。














← 歴史に登場するようになった。(※「〜でき」が重なるので、後のほうをこのようにする)



← ところで、「コロンブスデーという……」
◎ いい話が付け加えられている。
← ネイティブアメリカン

 話がとてもよくまとまっていて書き直すほどのこともないので、矢印のところに注意を促して、これはこれでよしとした。

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2−2.『十三植民地の中心「ペンシルベニア」』(小5 小野勇太郎)

 『ヨセミテ国立公園』を掲載する予定であったが、『歴史のテスト』に続いてこの作文が現れたので、これを先に掲載することにする。また、学校や家の近所の写真も送られてきているので、『現地校について』の作文とともに紹介しよう。
 『ヨセミテ〜』については他日を期したい。

 なお、この作文は学校に提出したレポート(英文)の日本語訳である。原文にはWilliam Penn(1644〜1718)の肖像とともに、参考文献を列挙してある。本格的なレポートの体裁をとっている。

はじめの作文 添削例
・ ペンシルベニアはアパラチアン山脈に広がる山、谷間、川が美しい所です。ヨーロッパ人が来る何千年も前から先住民族はその山や川に住んでいました。
・ 1600年代の初めにはオランダ人、スウェーデン人そして英国人がペンシルベニア地方を自分のものであると主張しました。しかし最後に英国が勝ちついにペンシルベニアを1664年に手に入れました。
・ 1681年1月5日、英国のチャールズ2世はウィリアム・ペンに、新しい植民地を始めることを許しました。ペンは新しい植民地を「森」の意味であるシルベニアと名づけました。王様はペンの父の名誉をたたえ、シルベニアの前にペンをつけることに決めたので、「ペンシルベニア」になりました。
・「ペンシルベニア」は十三植民地の中心にありました。
・ 1682年、ペンは英国からペンシルベニア植民地に着きました。ペンは信心深いクェーカー教徒でした。ペンはクェーカー教徒とそれ以外の人々も安全な礼拝の自由を希望しました。
・ ペンはクェーカー教徒であったために英国で何度も刑務所に入れられたつらい経験があったのでなおさら宗教の自由を大切にしたかったのです。
・ペンはまた、宗教の自由と平等、個人の権利などを憲法に表しました。
・ペンはネイティブアメリカンの人々と条約を結び、彼らを平等にあつかいました。
・ペンの宗教上の試みはとてもすばらしいと思います。ペンは1718年に死にましたが、彼の思想は今もまだ生きています。   
← アパラチア山脈
← 山や谷、川が
← その山の中や川のほとりに

← スウェーデン人、そして、英国人が
← しかし、最後に英国が勝ち、1664年についに












← ペンは、クェーカー教徒もそれ以外の人々も安全な場所で礼拝の自由をもつことを希望しました。
(※ 原文に合わせると、こういうことになるかな)。 

 すばらしい研究だ。これがほんとうの勉強だと言ってよい。内容については直すところがない。読点(、)の打ち方に注意して書き直してもらおう。

書き直した作文
・ ペンシルベニアはアパラチア山脈に広がる山や谷、川が美しい所です。ヨーロッパ人が来る何千年も前から先住民族はその山の中や川のほとりに住んでいました。
・ 1600年代の初めにはオランダ人、スウェーデン人、そして、英国人がペンシルベニア地方を自分のものであると主張しました。しかし、最後に英国が勝ち、1664年についにペンシルベニアを手に入れました。
・ 1681年1月5日、英国のチャールズ2世はウィリアム・ペンに、新しい植民地を始めることを許しました。ペンは新しい植民地を「森」の意味であるシルベニアと名づけました。王様はペンの父の名誉をたたえ、シルベニアの前にペンをつけることに決めたので、「ペンシルベニア」になりました。
・「ペンシルベニア」は十三植民地の中心になりました。
・ 1682年、ペンは英国からペンシルベニア植民地に着きました。ペンは信心深いクェーカー教徒でした。ペンはクェーカー教徒もそれ以外の人々も安全な場所で礼拝の自由をもつことを希望しました。
・ ペンはクェーカー教徒であったために、英国で何度も刑務所に入れられたつらい経験があったので、なおさら宗教の自由を大切にしたかったのです。
・ペンはまた、宗教の自由と平等、個人の権利などを憲法に表しました。
・ペンはネイティブアメリカンの人々と条約を結び、彼らを平等にあつかいました。
・ペンの宗教上の試みはとてもすばらしいと思います。ペンは1718年に死にましたが、彼の思想は今もまだ生きています。   

 構成(組み立て)についても、ペンシルベニアの成り立ちやペンのことを順々に書いてきて、おしまいに感想を添えているのがよい。「事実と意見を分けて書く」のが作文・論文の基本だが、それが見事に書き分けられているのだ。

 勇太郎くんの学校や近所の写真を、『現地校について』の作文とともに紹介しよう。こちらへ。

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『万里の長城』(小5 糟谷拓海)

 拓海くんは長期の休みになると、全国各地の名所見物に連れていってもらったり、甲子園へ母校の野球の応援に行ったりしている。拓海くんの特徴ないし特長は、出来事を具体的に書くところにある。ここにその一部を紹介しよう。

はじめの作文 添削例
 11月、ぼくはお父さん、お母さんといっしょに中国ツアーに参加しました。そして、2日目に万里の長城に行きました。
 朝早く、まだ空がうす暗いころ、ホテルを出発しました。外を見ると、兵隊さんがいっぱいいました。なんだか日本ではない気がして、ここは中国なんだと実感しました。高速道路に乗って30分くらいたつと、外は山に囲まれていました。もう30分たつと、正面になにか山にそっている道のような物が見えてきました。ぼくは、
「あれ、なに? えっ、もしや、万里の長城?」
と言いました。すると、ガイドさんが、
「よくわかったわね〜。あれは八達嶺の万里の長城よ」
と教えてくれました。ぼくは「一度でいいから万里の長城に行きたい」と思っていたので、とっても感激しました。それから10分くらいで、入口に着きました。10分前とは違い、聳え立っているように見えました。それから記念写真をとって、いざ出発しました。万里の長城には男坂と女坂がありました。ぼくは、傾斜のきつい男坂を登りました。登っていくと、どんどんきつくなっていきました。しかし、とっても景色がきれいでした。ぼくは「今、登っているだけでも感動できるのに、こんなきれいな景色まで見れるなんて、最高だあ!」と思いました。そして、四つ目のやぐらまで登りました。左を見ると、さっきの入口がとっても小さく見えました。
「登りきったぞ〜」と思い、右を見ると、地平線の方までず〜っと続いていました。ぼくは唖然としました。もちろん、万里の長城が本当に龍のように見えたことにも唖然としましたが、ぼくは本当に万里の長城に来てよかったと思いました。今まではテレビの中での世界だったけど、本当に行って、登って、見てみることによって、万里の長城が龍に見えたりとかが実感できました。
← 11月の初めごろ、


← マイクロバスでホテルを

← 日本では見たこともない光景だったので、ここは中国……








※「ぼくは一度でいいから……」の文を第1段落の末尾にまわし、「憧れの長城だったので、とっても感激……」とする。
※「それから記念写真を……」で改行して、「バスを降りて記念写真を……」とする。
※ 坂の急な様子や景色のきれいさを書き入れよう。

← 見られる
※ やぐらから見えた景色を書こう。
← 後ろを見ると、入口が

※「唖然」→「呆然」


※「万里の長城」って、いったい何なのだろう。歴史を調べてみよう。
 

 せっかくいい所へ行ったのだから、歴史も書いておこうと勧めたわけだが、手持ちのパンフレットでは少しもの足りない。そこで、拓海くんは百科事典のコピーや歴史辞典を持ち帰って、一晩がかりで調べて書き加えてきた。

調べて付け加えた部分 添削例
 昔の中国ではモンゴルなどの攻撃から国を守るために「長城」と呼ばれる壁を作りました。起源は紀元前7世紀ごろで、この頃は数多くの戦争で、国と国とがくっついて七つの国にしぼられました。「燕」「秦」「韓」などの七つの国がそれぞれ長城を作りました。それから約500年たって、七つの国で一番強かった「秦」の国が天下を統一しました。秦の始皇帝はそれと同時に、ばらばらだった長城を一つにしました。しかし、時がたつにつれて次第にこわれていき、現在残っているほとんどの部分が明代(17世紀)に築かれたものです。また、明代に築かれたものの一部も、材料が粗末で風化が進んでいます。そのため、現存する長さは約2,700キロメートルです。全部合わせると、全長約1万キロメートルにもなります。このとてつもない長さのため、「万里の長城」と呼ばれるようになったのです。その後、万里の長城は世界遺産に登録されました。
 こうして万里の長城の歴史を見ていると、長城はずっと昔からあったことに驚きました。風化している部分もあるけれど、ちゃんと400年、もっと昔から残っている部分もあります。こんなにじょうぶで長い城壁を作り上げた昔の人の知恵は本当にすごいと思いました。城壁には約100メートルおきにのろし台を作り、おおかみのふんを燃やし、そのけむりの量で敵の人数を把握したりと、いろいろな工夫もあって、とってもおもしろいと思いました。


※「この頃は……しぼられました」をけずる。





← 次第に風化して

※「また、明代に……。そのため」をけずり、以下、次のように整理しよう。
← 全部合わせると、約1万キロメートルあったと言われます。このとてつもない長さのため、「万里の長城」と呼ばれるようになりました。現存する長さは約2,700キロメートルです。これは日本列島の長さと同じくらいです。万里の長城は1,987年に世界遺産に登録されました。




← 人数を把握したということなど、

 事典類をよく読みこなしたものだ。これらを合わせて、次のように整理した。

書き直した作文
 11月の初めごろ、ぼくはお父さん、お母さんといっしょに中国ツアーに参加しました。そして、2日目に万里の長城に行きました。ぼくは「月から見えるただ一つの建造物」ということで、「一度でいいから万里の長城に行きたい」と思っていました。
 朝早く、まだ空がうす暗いころ、マイクロバスでホテルを出発しました。外を見ると、兵隊さんがいっぱいいました。日本では見たこともない光景だったので、ここは中国なんだと実感しました。高速道路に乗って30分くらいたつと、外は山に囲まれていました。もう30分たつと、正面になにか山にそっている道のような物が見えてきました。ぼくは、
「あれ、なに? えっ、もしや、万里の長城?」
と言いました。すると、ガイドさんが、
「よくわかったわね〜。あれは八達嶺の万里の長城よ」
と教えてくれました。憧れの長城だったので、とっても感激しました。それから10分くらいで、入口に着きました。10分前とは違い、長城は聳え立っているように見えました。
 バスを降りて記念写真をとって、歩いて出発しました。万里の長城には男坂と女坂がありました。ぼくは傾斜のきつい男坂を登りました。登っていくと、どんどんきつくなっていきました。傾斜は60度くらいありそうでした。左側の山が日に照らされてとってもきれいでした。ぼくは「今、登っているだけでも感動できるのに、こんなきれいな景色まで見られるなんて、最高だあ!」と思いました。そして、長城の1つの頂上に当たる四つ目のやぐらまで登りました。長城はその先のはるか遠くまでかすんで見えました。後ろを振り返ると、さっきの入口がとっても小さく見えました。「登りきったぞ〜」と思い、右を見ると、地平線の方までず〜っと見えました。ぼくは、景色のあまりの大きさに呆然としました。万里の長城が本当に龍のように見えたことにも驚きました。ぼくは万里の長城に来て本当によかったと思いました。今まではテレビの中だけの世界だったけど、本当に行って、登って、見てみることによって、万里の長城のすごさが実感できました。
 昔の中国ではモンゴルなどの攻撃から国を守るために「長城」と呼ばれる壁を作りました。起源は紀元前7世紀ごろで、「燕」「秦」「韓」などの七つの国がそれぞれの長城を作りました。それから約500年たって、七つの国で一番強かった「秦」の国が天下を統一しました。秦の始皇帝はそれと同時に、ばらばらだった長城を一つにしました。しかし、時がたつにつれて次第に風化していき、現在残っているほとんどの部分は明代(17世紀)に築かれたものです。全部合わせると、約1万キロメートルあったと言われます。このとてつもない長さのため、「万里の長城」と呼ばれるようになりました。現存する長さは約2,700キロメートルで、これは日本列島の長さと同じくらいです。万里の長城は1,987年に世界遺産に登録されました。
 万里の長城の歴史を見ていると、長城はずっと昔からあったことに驚きました。風化している部分もあるけれど、ちゃんと400年、いや、もっと昔から残っている部分もあります。こんなにじょうぶで長い城壁を作り上げた昔の人の知恵は本当にすごいと思いました。城壁には数百メートルおきにのろし台を作り、おおかみのふんを燃やし、そのけむりの量で敵の人数を把握したということなど、いろいろな工夫もあって、とてもおもしろいと思いました。
 1時間くらい長城にいて景色を楽しんだ後、駐車場にもどりました。振り返ると、長城はさっきよりも大きく見えました。

 これによって拓海くんは万里の長城を時間・空間においてとらえたことになる。締めくくりの印象も心憎い。
 中国滞在記はまだ続く。

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『天安門と王府井』(小5 糟谷拓海)

 今度の中国旅行には、いわゆるツアーで参加したのだが、拓海くんはただついていくのではなく、スケジュールを見て、自分が見たいところに目星をつけている。
 なお、「王府井」は中国語の「ワンフーチン」という名で呼んでいる。

はじめの作文 添削例
 三日目、北京市内の名所をまわりました。
 まず、天壇公園に行きました。そこには円形の建物がありました。この建物は釘を一本も使っていない構造だそうで、これは日本の清水の舞台の構造と同じだなあと思いました。
 次に、天安門と故宮博物院に行きました。ぼくは「中国に行ったら、これ!」という中に天安門が入っていたので、万里の長城の次にどきどきしていました。天安門に着いた時、ぼくは「広ーい」と思いました。たくさんの人がいて、とても混みあっていました。混んでいなかったら、もっと広く見えただろうけど、十分広く見えました。それから、天安門の近くに歩いて行きました。毛沢東の油絵が大きく見えて、やはり中国だなあと思いました。
 天安門の右手をぐるっと回って故宮博物院に行きました。博物院の入口には高さ約38メートルの「午門」があります。お父さんは午門を見た瞬間、
「ラストエンペラーだ」
と言いました。内容は分からないけれど、映画にもなっているらしく、故宮博物院はすごいのだろうなあと、胸がどきどきしました。午門をくぐると、太和門が見えてきました。そこをくぐると広場があって、陰陽寺の一場面が浮かんできました。大理石の橋をわたると、太和殿が見えてきました。今は北京オリンピックに備えて改修していたので、近くには行けませんでしたが、沖縄の首里城みたいでした。それから細い道を通り外に出ました。ふり返ると、通路のところがずーっとまっすぐで、幻想的でした。
 観光を終えて、ご飯を食べました。メニューは山西料理です。山西料理は刀削麺が有名です。麺のかたまりをバイオリンのように持って、釜を目がけて削って飛ばします。ぼくは一度だけテレビで見たことがありましたが、生で見るのは初めてなので、とっても楽しみにしていました。しばらくすると、お兄さんがやってきて、麺のかたまりを左手にとり、麺をナイフで飛ばし始めました。正確な手さばきで、麺がどんどん釜の湯の中に入っていきます。とても感動しました。すごくおいしそうに見えたのですが、どろどろしていて、ぼくの口には合いませんでした。
 夜になって、お父さん、お母さんとぼくで、王府井に行きました。ホテルから15分くらいで着きました。屋台が立ち並んでいて、とても混みあっていました。その屋台ではカエルの足、キリギリス、サソリ、セミ、ヒトデの串刺しなどを売っていました。ぼくは「中国の人はこんなものをたべるのか」と思い、とってもこわく感じました。王府井では、友達のおみやげにおはしを買いました。
 四日目は、ホテルから北京国際空港に直行して、成田空港行きに乗りました。













← 毛沢東の肖像画










← ……広場があって、大理石の橋をわたって、もう一つの門をくぐると、左手に太和殿が見えてきました。
← ……首里城みたいでした。そこを真っすぐに歩いて、細い道を通り外に出ました。ふり返ると、今歩いてきた道が午門の所までずーっと見通せて、幻想的でした。
※ 故宮博物院はどこにあったのだろう。







← 麺はどろどろしていて、

← 夜になって、ぼくたち家族は王府井という街に
← 通りには屋台が立ち並んで

← ……ヒトデなどの串刺しを

 故宮博物院ではいろいろな門や建物に気をとられて、そこが当の博物院であることに気がつかなかったようだ。

書き直した作文
 三日目、北京市内の名所をまわりました。
 まず、天壇公園に行きました。そこには円形の建物がありました。この建物は釘を一本も使っていない構造だそうで、これは日本の清水の舞台の構造と同じだなあと思いました。
 次に、天安門と故宮博物院に行きました。ぼくは「中国に行ったら、これ!」という中に天安門が入っていたので、万里の長城の次にどきどきしていました。天安門に着いた時、ぼくは「広ーい」と思いました。たくさんの人がいて、とても混みあっていました。混んでいなかったら、もっと広く見えただろうけど、十分広く見えました。それから、天安門の近くに歩いて行きました。毛沢東の肖像画が大きく見えて、やはり中国だなあと思いました。
 天安門の右手をぐるっと回って故宮博物院に行きました。博物院の入口には高さ約38メートルの「午門」があります。お父さんは午門を見た瞬間、
「ラストエンペラーだ」
と言いました。内容は分からないけれど、映画にもなっているらしく、故宮博物院はすごいのだろうなあと、胸がどきどきしました。午門をくぐると、太和門が見えてきました。そこをくぐると広場があって、大理石の橋をわたって、もう一つの門をくぐると、左手に太和殿が見えました。今は北京オリンピックに備えて改修していたので、近くには行けませんでしたが、沖縄の首里城みたいでした。そこを真っすぐに歩いて細い道を通り外に出ました。ふり返ると、今歩いてきた道が午門の所までずーっと見通せて幻想的でした。その歩いてきた道は約1キロメートルで、両側の建物全体が故宮博物院でした。
 観光を終えて、昼食にしました。メニューは山西料理です。山西料理は刀削麺が有名です。麺のかたまりをバイオリンのように持って、釜を目がけて削って飛ばします。ぼくは一度だけテレビで見たことがありましたが、生で見るのは初めてなので、とっても楽しみにしていました。しばらくすると、お兄さんがやってきて、麺のかたまりを左手にとり、麺をナイフで飛ばし始めました。正確な手さばきで、麺がどんどん釜の湯の中に入っていきます。とても感動しました。すごくおいしそうに見えたのですが、麺はどろどろしていて、ぼくの口には合いませんでした。
 夜になって、ぼくたち家族は王府井という街に行きました。ホテルから15分くらいで着きました。通りには屋台が立ち並んでいて、とても混みあっていました。その屋台ではカエルの足、キリギリス、サソリ、セミ、ヒトデなどの串刺しを売っていました。ぼくは「中国の人はこんなものをたべるのか」と思い、とってもこわく感じました。王府井では、友達のおみやげにおはしを買いました。
 四日目は、ホテルから北京国際空港に直行して、成田空港行きに乗りました。

 好奇心も満たされて、満足な旅であったようだ。

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『カタリナ島キャンプ』(小6 小野勇太郎)

 勇太郎くんはこのサイトの「2.」や「ワールド・ベースボール・クラシック」でおなじみであるが、ユニークな生活をしているので、いきおい登場回数が多くなる。今回は「修学旅行」についてである。
 修学旅行がキャンプというのは変わっているが、今回はユニークな作文にもなった。

はじめの作文 添削例
 3月12日から16日までカタリナ島に学校の修学旅行に行きました。6年生ほぼ全員100名と先生2人でニューポートビーチに朝集合して島までは船で2時間かかりました。カタリナ島のアバロンに着いてから、また小さな船で同じ島内のトーヨン湾に行きました。カタリナ島はロスアンゼルスからも2時間で行ける観光地です。でも、ぼくたちの泊った所は「カタリナ島海の研究所」で、とても静かな所でした。寄宿舎は研究所から約5分くらいの所に点在していました。キャビンには約20人入ります。部屋は3人部屋と10人部屋がありました。もちろん男子と女子は別々でした。
 朝6時に起床し朝食を食べてからいろいろなアクティビティーをしました。例えばシュノーケリングやカヤッキングや海洋動物の説明をしてもらったりボートに乗りました。夜は夕食を5時に食べた後、またシュノーケリングをしました。9時に寝るまでとても忙しい一日でした。 
← 修学旅行でカタリナ島に
※ 7行目の「カタリナ島は……」の文を2行目に持ってくる。そして、「6年生……」の頭に「朝、」を付けて改行する。
← ……トーヨン湾に行きました。ぼくたちの泊まった所は……


※「約5分」か「5分くらい」のどちらかに。


← 次の日は朝6時に起床し、

← ……カヤッキングのほか、海洋動物の説明をしてもらったりボートに乗ったりしました。
※ シュノーケリングがずいぶん楽しかったようだ。どんなところが楽しかったのだろう。海の中の風景なども書き加えよう。
※ 3日目、4日目のこともしっかり書こうね。

 楽しい様子を具体的に書いてくることを期待したのだが、続きがなかなか届かない。1か月ぐらいたって届いたのは、まったくスタイルを変えたもので、しかも、英語訳が付いていた。
 もしかすると、学校でレポートとして提出したものを日本語に訳したのかもしれないが、両方とも直すところがほとんどないので、両方を対訳の形で掲載しよう。

書き直した作文 その英文
 ぼくは3月12日から16日まで、カタリナ島の海洋研究所に、6年生全員と2人の先生と行きました。すべて楽しい1週間でしたが、特に3つのことが心の中に残っています。

 第一に、ぼくはゆっくり泳いでいる、たくさんの種類の魚を観察することができました。魚はカラフルで、とても美しかったです。ブラックスミス、トップスメルト、オーパレーという魚たちはカタリナ島にしかいないそうです。

 第二に、シュノーケルをしたことです。天気はよかったけれど、少し寒いと感じました。しかし、ぼくたちはウェットスーツを着ていたので、暖かくなりました。その時、ぼくはエイを発見して興奮しました。

 第三に、カヤックをしたことです。カヤックをこぐのはむずかしかったですが、慣れると、他のスポーツのように楽しくなりました。

 カタリナ島のキャンプはぼくの人生の良い経験になりました。たくさんの生物が太平洋でたくましく生きていりことに深く感動しました。ぼくは将来、神秘の海を調査したいと思います。 
 I went to the Catalina Island Marine Institute with my 6th classmates and two teachers from March twelve to sixteen. I enjoyed everything ; especuially the following three things were impressive.

 The first thing was that I could observe many kinds of fish moving slowly. They were very colorful. They were Blacksmiths,Topsmelt and Opaleye.

 The second thing I did was snorkeling. The weather was good,but I felt a little bit cold. We wore wetsuits which made us warm. When I saw a Bat Ray,I was very excited!

 The third we did was kayaking. It was hard to paddle a kayak, but it was fun for me to try paddling like other sports; baseball batting,table tennis and tennis.

 Science camp in Catalina Island was a good experience for my life.I was impressed that many creatives live strongly in Pacific Ocean. And I aiso would like to investigate the mysterious sea in the future.

 英文も読みやすく分かりやすい。ということは、内容がこなれているということである。

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